『真珠の耳飾りの少女』@シネ・リーブル池袋

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美術、哲学、歴史、そういった学術的なトピックを取り扱った作品は数多いが、史実に対するその作品のスタンスがそのクオリティを決定づけると言っても過言ではないだろう。例えば、先の『パッション』が町山氏らを筆頭に批判の矢面に立っているようだが、キリストとその周辺を描くということは「タブー」に触れるようなものであり、『ベン・ハー』でキリストの顔をとらえたショットが逆光でシルエットのみだったことからも分かるように、昔からそれらの宗教的な物語(あるいはそれにまつわるシンボル)を描く行為は常に危険性をはらむ行為だった。映画の便利でありかつ狡猾な点はその禁忌的性質を独自の解釈や想像力を用いることによって良くも悪くもごまかすことができる点で、それはつまりフィクションとノンフィクションの境界という問題につながっていく。これは今日見た『真珠の耳飾りの少女』についても同じことがいえるだろう。フェルメールが使用人をモデルに名画を描き上げたという事実があったとして、そこから先のどこまでが事実で、どこからがフィクションなのだろうか。つまりこの作品を「美術的」「絵画的」であるといって評価する(実際にその声が多い)ことは、必ずしも「ノンフィクション的」であることと同義ではないわけで、その騙しのテクニックにのせられてはいけないな…と思いながら終始話を追っていた。
『LIT』のあとだけにその美しさが一層際だって見えるスカーレット・ヨハンソンはメイド役を好演しているが、肝心要のフェルメール役を演じるコリン・ファースがどうにもいただけない。スカーレットはどんなアングルでも微妙なその憂いの表情が光に映えて大変印象的なのだが、コリン・ファースはどう見ても芸術家肌の男には見えず、毎日酒ばかりあおってろくに働きもしないごろつきか、あるいはニューヨークの酒場で毎日ジンをかっくらうあやしげな男といった間違った風情しか醸し出していない。そんな男が突然新宿のホテルで、もといこざっぱりしたアトリエでメイドに向かって「Stay」と命じ、彼女の耳にピアスの穴を空けるのである。見ている側としては完全無欠の感情移入0%に近い状態、ほとんど「フェルメール記念館」の説明ヴィデオを見させられている感覚。映画は物語としての起伏はほとんど無い状態で(あるにはあるのだが厳密に言うと説得力を完全に欠いたまま)進んでいくのだが、その中でも「"美術"感」だけは常に瑞々しく失われないままに一つ一つの構図の中に閉じこめられている。特筆すべきはライティング、次いで衣装を挙げるべきだろう。自然光のテイストをほとんど全編で再現しているところが印象的である。逆に、ストリングスの同じリフレインを何度も繰り返し使う音楽の手法、登場人物の感情の揺れを音楽を用いることでしか表現できない点には脚本の弱さを感じた。
とにかく、今が旬のスカーレット・ヨハンソンに注目の方のみにおすすめの一本といった感じです。頭巾で見え隠れするうなじだったり、唇を舐める仕草だったり、細かいところがいちいちストライクでした。